エッセー「習うより慣れろ」
福井新聞「リレーエッセー つらつら紡ぐ」に寄稿しました。
<2016年2月24日掲載>
「習うより慣れろ」
美術作家・湊 七雄
初対面の会話で趣味を尋ねられると答えに困ってしまう。私は多趣味を自認していて興味の範囲が多方面におよぶので、どこまでが趣味で、どこからが専門という説明が難しい。美術作家なので「作品づくり」は専門としておくが、それは究極の趣味でもある。「趣味」とは専門としてではなく楽しみとして取り組むものとされるが、作品づくりに楽しみや歓びが伴わなければ私たちの仕事は成立しないからだ。(もちろん苦しみに満ちている場合もあるが)
ともあれ数ある趣味の中で最も実用的なのが「料理」で、共働きの我が家の場合は結構役に立つ。周りの美術作家仲間には食いしん坊が多く、当然の事ながら料理への関心も高い。例えば、本場のスパイスを独自ブレンドしたカレーや板前さながらの包丁さばきが冴えるお造りなど、みんな結構本格的に作るので、どうしてもライバル心が働いて「負けられない!」となる。
先頃、知人を自宅に招いた際に料理の腕をえらく褒めていただいた。そして料理の習得方法が話題にあがり、今は亡き母の話になった。
母は料理が上手な人だった。その昔、フードビジネスを手掛けていた時期もあるのでプロの料理人ということになる。しかし思い返してみると、直接料理の手ほどきを受けた記憶はなく、メニュー試作に勤しむ母の横で味見係をしていた程度だ。中学校に上がる頃には両親は多忙を極め、早朝から深夜まで仕事。言換えれば放置されていたような状態だった。
親が家に居ないので、食事は一つ上の姉と手分けして準備した。当時の自分の頑張りを改めて褒めてあげたい程だが、中学3年間は毎日の弁当を自分で作った。幸い一般家庭にはないような調理器具も揃っていたので、凝ったスイーツやパンづくりにもチャレンジし、それなりに楽しんでいたのを覚えている。
ところで、料理習得にベストな方法はあるのだろうか。料理本に忠実に作ればプロの味を再現できるのだろうか。
実はいま、版画技法書出版のプロジェクトを進めているのだが、制作手順やコツの説明は思いのほか難儀した。実演すれば簡単に済むことを文章でどう表現すべきか。ヒントを探るべく数冊の料理本を本来とは異なる目的で読み、技の伝達方法について独自に分析を試みたが、それらの多くが材料の分量や簡単な手順を大雑把に示すだけだった。下ごしらえや道具の扱いといったレシピ以前の基本的な料理知識については、習得していることが大前提となっているのだろう。
大雑把であるからそこ、説明の足りない部分を個人の想像力や経験で補う必要が生まれるが、そこに「創作」を成立させるツボが隠されているように思える。
料理も作品づくりも知識として覚えるだけでは不十分で、目的への到達はできない。失敗を繰り返しながら実体験を通じて自分の身体が自然に反応するよう、練習を重ねて慣れて行くほうが習得は早い。まさに「習うより慣れろ」だ。
20世紀の美術教育の源流を作ったローウェンフェルドの言葉を借りると、技法は個人個人の要求に応じて発達するもので、それは高度に個人的なものなのだ。それゆえ技法は説明することも教えることもできない。説明できるのは手順のみだ。
美術に限らず芸術分野全般における表現技法の習得には、繰り返しの練習が求められ長い時間を要する。今春で大学教員生活丸10年となるが、さて自分自身は学生らが独自の技法を見つけ出すまでの充分な時間を確保できているだろうか。ローウェンフェルドの言葉が心に深く響いている。
版画の師匠エンク・デクラマーの自宅アトリエ(ベルギー・ゲント市郊外)。
エンクは極めて口数少ない指導者だった。